8、アリストテレスの「霊魂論」

 今回のテキスト「待ちに待ってた臨死体験」は、すべては脳の仕業であり、臨死体験ならぬ「臨生体験」だ、とし、「生きている限り、毎日がすべて臨死体験だ」の落ちで納めていますね。養老孟司先生の「唯脳論」の続きみたいなので、今回もテキストは皆さん個々の読みに任せます。

 前回のソクラテス対話編『パイドン』のテーマである「魂」に絡んで、お一人が「魂って何ですかね」の、極めて本質的な問いを発してくれました。ソクラテスは「魂をすぐれたものにするために絶えず気遣いなさい」と言うのが常でした(『ソクラテスの弁明』)。「すぐれている」とは「アレテ―(徳)のある状態」であり、そこへ向かって精進を続けること、が自らにも課したソクラテスの生き方でした。

 「魂」は「プシュケー」の訳ですが、「息」「気息」が原意で、生きている森羅万象に存在する「生」の原理、現代風に言えば「いのち」と古代ギリシアの人たちは考えていました。私たちには「プシュケー=気」が多分、最も近接な概念だと思います。

 「魂とは何か」について、『霊魂論』(「アリストテレス全集6」岩波書店、)を著して詳細な分析を重ねたのが、弟子のアリストテレスでした。アリストテレスは、「霊魂はいわば生命の初めのようなものである」とし、その研究は学の中で「最上位」に属する、と冒頭にその大事さを宣言しています(同書p.3)。

 アリストテレスは、「肉体に閉じ込められている魂」とのソクラテス流の考えを逆転して、「むしろ反対に魂が肉体を保っている」と考えました。なぜなら、魂が出ていけば、肉体は分散し、腐敗する、からだと言うのです(同p.36)。

 彼によれば「生命とは、自分自身により、栄養を摂取し、成長、衰弱するもののことである」(同p.38)。アリストテレスには、存在のあり様について、これから何かになっていく可能性を秘めた状態としての「可能態」と、完成した状態である「現実態」の二つに分けて考えていました。そして「魂」はこれから何かになる可能態の存在ではなく、すでに何かである「現実態」である、と定義したのです(同p.39)。

 「生きていること」とは、「栄養の摂取」による成長と衰弱のある状態であり、動物としての人間は、さらに「考えたり」「感じたり」「運動したり」の能力を発揮できる状態である、とするのです(同p.42)。

 「魂は生きている存在の原因あるいは原理である」とし、「運動がそこからくるものとしての始動因」「そのものになる原因としての目的因」「そうあることの原因である形相因」の三つをあげています(同.p.50)。

 人間に当てはめれば、魂は「人間が人間である」原因であり、「人間が人間になる」原因であり、「人間が運動や思考をする」原因である、ということになります。

 アリストテレスは、感覚のうち、触覚を「生きるために本質的なもの」、その他の視覚、聴覚、臭覚、味覚の四つの感覚を「善く生きるためのもの」と言っています(同p.121)。「善く生きる」は、ソクラテスの「徳に向かって生きる」に通じるものです。