8、ラッセル カントは人なみはずれて心理学にくらかった。

 今回(2013.2.26)は、カントの空間に対する考え方に対するバートランド・ラッセルの指摘を踏まえながら、空間とは何かについて、みなさんと議論したいと思っています。
 カントは「何もない空間を考えることはできても、空間そのものがまったく存在しないと考えることは不可能である」と言っています(カント『純粋理性批判(上)』岩波文庫、p.90)。まず、これはどうでしょうか。空間が存在しない状態を私たちは本当に考えられないのでしょうか。それは、無を考えることと同じなのでしょうか。無もまた、考えることができないように思えます。

 カント(1724-1804)の考えていた空間は、いわゆる物理的空間とどう関係するのでしょうか。ニュートン(1642-1727)が考えた絶対空間ととの関係はどうなのでしょうか。アインシュタインが考えた時間と空間の同一性(重力場の方程式によって結ばれる)のことをカントが知ったならば、どのように反応するでしょうか。

 ちなみに、カントの時間についての考え方についても、簡単に触れておきましょう。
「現象を時間から除き去ることは格別むつかしいことではないが、しかし現象そのものを除き去ることは不可能である」(カント『純粋理性批判(上)』岩波文庫、p.97)。
 このように、時間においてもカントは空間とまったく同じ考え方を示しています。時間も空間も、消し去ることができない、という点で、カントの認識は一致しています。そして、時間は「内感」の形式として、現象(出来事)を内的状態として私たちに示し、空間は「外感」の形式として、対象を外にあるものとして示す、と言っています。

 このカントの表現は、わかりやすいとは言えません。物理的な「内と外」と、カントの考える、心の中で弁別する「内と外」は、どのようにクロスするのでしょうか。時間は、私たちの外では流れていないのでしょうか。心の外感が「外にある」と認識する「外」とはいったいどこにあるのでしょうか。

 さて、今回は以下のレジメの説明をしたあとで、バークリーの『視覚新論―付:視覚論弁明』から、次のような興味深い箇所を紹介しました。

 視覚の知覚はあるが触覚の知覚のない叡智体、が存在したとしよう。この叡智体は、立体や三次元のいかなる観念ももてないだろう。すでに示したように、私たちが立体の観念を持てるのは、視覚に触覚の観念が結びつく経験によるからである。
              (同書pp.122-123)

 トリックアートのことをご存知でしょうか。簡単にいえばだまし絵ですが、平面から何かが飛び出しているように見えたり、逆に奥行のある立体が平面に見えたりするこの種の絵は、通常は目の錯覚と言われますが、バークリーが明らかにしたように、逆に目はすべてを平面の現象としかとらえていないのです。世界を立体に感じるのは、触覚の協力によって、脳の中に立体像として意識されるように経験のなかで組み立てられていくからなのです。つまり、私たちの見ている三次元世界は、それそのものがヴァーチャル・リアリティなのです。

 このような話を起点として、私たちはどのような空間にいるのだろうか、と議論を始めました。一人は、目の見えない人たちが主催する暗闇体験「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の実際の体験談をしてくれました。「目の見えない人たちは、ほらそこに靴があるでしょう、とこちらがまったく見えないのまるで見えるかのように感覚が研ぎ澄まされている。暗闇での行動で感じたことは、人間性というべき空間があるということだ」。別の一人は、ジャーナリスとのウオルター・リップマンの『世論』をいま読んでいるといい、この「世論」というのも一つの空間ではないか、と提案してくれました。リップマンの著『世論』は、プラトンの「洞窟の比喩」を表紙裏に飾ることによって、ジャーナリズムのあるべき本質を言い当てています。私たちは、洞窟の壁に写っている人形や乗り物の影を見ているにすぎない、というプラトンの有名な比喩を使って、リップマンはジャーナリストの役割は、影絵を操る者たちの正体を探究するのがジャーナリズムだ、と喝破したのでした。この話は、私たちが見ている現実は、影のようなものであり、本質は常に隠されている、という大事なことを教えてくれるものです。
 もう一人が、ある閾年齢を過ぎると立体視ができなくなる、という最近の脳科学の成果を紹介しました。ちょうどいい話がでました。私たちは二つの目で世界を見ていますが、さて、この見えている世界は実像なのでしょうか。実は、虚像なのです。なぜなら、左右のスピーカーが一つの音響として私たちに迫ってくるように、左の目で見ている世界と、右の目で見ている世界がひとつになって私たちの意識のなかで像として結ばれるからです。
 今回は、こんな具合に対話が進んでいきました。終わった後の食事会で、一人の方が、日本人の空間は光と陰で出来ているのではないか、たとえば茶室のような…と話し始めました。「『陰影礼賛』という本がありますね」と私。「谷崎潤一郎ですね」とすかさずその方。もう一人が「先日、渋谷の能学堂で能を鑑賞したのですが、西洋のオペラなどと違って、終わるとサーッと出演者が舞台から去っていき、拍手があるわけでもない。余韻だけが残っている。これも、日本の文化の特質なんでしょうね」
 
 何とも楽しい対話が、こうして続いてゆきました。

★受講生の方々には、以下のレジメを配布する予定です。

 視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚、それぞれの感覚はどのような空間を持っているのでしょうか。第六感はどうでしょうか。

ラッセル カントは人なみはずれて心理学にくらかった。
(『外部世界はいかにして知られうるか』中央公論、p.190)

 「心理学の本を読んだことのない人には、あらゆる知覚される対象が組みこまれていると考えられる、すべてを包含する一つの空間を構成するために、いかに多くの心の働きが必要であるかということがほとんどわからない。たとえば、カントは人なみはずれて心理学にくらかったのであるが、空間は「無限の与えられた全体」であると述べた。しかし、ちょっとでも心理学にもとづいて反省してみると、無限の空間が与えられているのではなく、また与えられているといえる空間は無限ではないこともわかる。…まずはじめに注意しなければならないことは、感覚によって空間も異なるということである。たとえば、視空間は触空間とはまったく別である。じっさい、幼児のときの経験によって初めて、私たちはこれら二つの空間を相関させることを学ぶのである」(『外部世界はいかにして知られうるか』中央公論、p.190)

サブテクスト:茂木和行『目隠し写真集―見えるものと見えないもの(哲学的ワークショップの試み)』(聖徳大学子育て支援社会連携事務局、2009.5)

 カントによれば、空間は概念ではなく「純粋直観である。我々は、ただ一つの空間だけしか表象できない」(カント『純粋理性批判(上)』岩波文庫、pp.90-92)。

 何かある対象について(たとえば人間)、いくつもの経験(観察や触れ合いなど)から、頭、胴体、足などで構成されているその対象について、私たちは個々の違いを捨象して「人間」と総称する。こうして、個々の「人」から、「人間」という概念が抽出されていく。「概念」(concept)は、ラテン語の「まとめて、一緒に」(con)「取り入れる」(ceive)からきた動詞「conceive」の名詞形である。
 
 空間は概念ではないとカントが考えるのは、私たちはさまざまな種類の空間を経験して、そこから一つの「空間」という概念を抽出いるわけではないからだという。同時にカントは、空間は無限であるという。なぜなら、有限であるとすれば、一つ、二つといくつもの空間を経験することになり、空間の概念化が可能になるからである。

 ラッセルは科学的な知見(心理学)から、空間が一つであるとするカントのこうした考え方に対して異議を唱えたのである。バークリーは、見えている世界が3次元空間であることは触れないとわからない、ことをすでに示していた(バークリー『視覚新論―付:視覚論弁明』(下条信輔ら訳、勁草書房、1990,p.93,pp.122-123)。

 赤ちゃんが何でも触りたがるのは、目で見える空間と触って得られる空間を一つにしていく作業にほかならない。手術によって視力を得た人が、訓練を経ないとドアノブを回してドアを開けることができないのも、同じ理由である。