8、民主主義に万歳二唱―今、起きていることの意味

 『国家』第八巻は、民主制には「雄蜂」「金持ち」「民衆」の三つの階層がある、と指摘されました。雄蜂族は「怠け者で浪費家」であり、民主制の「自由放任主義」によってたくさん発生してきます。寡頭制では尊敬されないこの種族が、民主制のもとでは力を発揮し、指導・管理する立場となります。彼らは、「金持ち階級」を彼らに蜜を供給する牧場とし、その大部分を着服しながら、おこぼれを「民衆」に分配するのです。こうした構造の元で、雄蜂族から「僭主独裁者」が生まれてくる流れが、第九巻の始まり571A(p.268)から語られていきます。

 このようにして誕生する独裁者たちは、いかなる人間性をもっているのでしょうか。「正真正銘の僭主とは、じつに最大のへつらいと隷属を行うところの、正真正銘の奴隷なのであり、最も邪悪な者たちに仕える追従者にほかならない」(579E, p.295)と規定されるのです。
 その結果、僭主は必然的に「妬み深く、信義なく、不正で、友なく、不敬で、ありとあらゆる悪を受け入れて養う人間であらざるをえないし、またその支配権力のゆえに、ますますそのような人間になって行かざるを」えず、これらの結果として、「誰よりも彼自身が不幸であるだけでなく、さらに、自分の近くにいる者たちを同様の人間とせずにはおかない」(580A, p.295)といいます。

 次に、五つの国制になぞらえた人間の性格―「王者支配制的な人間」「名誉支配制的な人間」「寡頭制的な人間」「民主制的な人間」「僭主独裁制的な人間」―のどのタイプが最も幸福で、どのタイプが最も幸福ではないか、その順序づけが行われます。プラトンは、この順番を幸福の順番にしており、私たちはビリから二番目の国制(民主制)にいることになります。さて、みなさんはどう思うでしょうか?第九巻の七~一二(580D-592B, p.297-p.336)は、あまり面白いとは言えないので、略します。

 『国家』第八巻から九巻を通してプラトンは、「民主主義の意味」を私たちに問いかけているように思えます。ここでは、E・M・フォースターの『民主主義に万歳二唱』(小野寺健ら訳、みすず書房、1994.7)と、ジャック・アタリ編著『いま、目の前で起きていることの意味について―行動する33の知性』(岩澤雅利ら訳、早川書房、2010.12)を紹介したいと思います。

 フォースターが「まえがき」を、「私たちはやがて民主主義に万歳三唱をすることができるかもしれない。現在のところ民主主義は万歳二唱にしか値しないけれども」と締めくくっているように、この書は民主主義に潜む危うさを念頭にしたエッセイ集です。その一節、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールと、プロイセンの啓蒙君主フリードリッヒ大王との交流を描いた「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」(pp.272-278)を配布します。

 ジャック・アタリ編著の本は、さまざまな分野で当事者として関わっている人たちが、対話によって世界の問題点に深く切り込み、「民主主義」「暴力」「政治」「経済」「マネー」「テクノロジー」など、私たちがその意味を掴みかねている現象・事象に対して、意味を与えようと試みた野心作です。民主主義の項目を配布しておきます。次回、議論しましょう。