8、真の倫理的問いとは何か

 今回は、キルケゴールが『人生行路の諸段階』で述べている「欺かれるものは欺かれぬものよりも賢く、欺くものは欺かないものよりも善い」をめぐって、さまざまな意見が交差しました。この言葉は、キルケゴール自身が同著作で引用・解説しているように、古代ギリシアのソフィスト・ゴルギアスが悲劇に関して語ったと言われるものです。キルケゴールはこの言葉を、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』における欺くものとしてのドン・ジョヴァンニと欺かれる女性たちの姿を、現実の男女関係になぞらえて話しているのです。 
 強い立場の男性は欺いて女性を手に入れようとし、女性は男性に欺かれてそのものとなる、この図式において、
 
「欺かれるものは欺かれぬものよりも賢く、欺くものは欺かないものよりも善い」

 が、成り立つというのです。この反語の意味するところは何か、が、私の用意したテーマでした。

 一人の受講生の方が、素晴らしい回答を示してくれました。

「欺かれる側も、欺かれる側も、主体的に行動していることにおいて、何もしない者よりも、賢く、善いといえるのではないか」

 みなさんが思わずうなった答えです。キルケゴールの意図に基づいて、私が用意した一つの回答は、次回にご紹介することに致しますが、この言葉をめぐって別な角度からなかなかの疑問が出されました。
 それは、「善い」は次の三つに区別される、それぞれの「善い」の違いは何か、というものです。

 好い  好い顔をしている
 良い  良貨は悪貨を駆逐する
 善い  勧善懲悪

 さて、みなさんは、どう考えるでしょうか。

 キルケゴールの言葉には、もう一つ、大きな問題が隠れていることもあげておきましょう。
 河上徹太郎がその著書『ドン・ジョヴァンニ』で引用したキルケゴールの『人生行路の諸段階』は、昭和24年5月刊行の中澤洽樹訳によるもので、私もその訳語のままでレジメに使いました。しかし、佐藤晃一訳(「キルケゴール著作集12」白水社、1963年4月、p.269)と、國井哲義・大谷長訳(「キェルケゴール著作全集第四巻」創言社、1996年10月、p.225)では、「正しい」となっているのです。生憎、デンマーク語の原文は未入手で、それぞれの訳本の注釈などにも、もとの言葉がgoodにあたる「Goda](善い)なのか、rightにあたる「Ret」なのか定かではありません。もとのギリシア語文献も、未入手なのでゴルギアスが「善い」と使っているのか、「正しい」と使っているのか、恐縮ですがわかりません。

 翻訳の問題以前に、「善い」と「正しい」の関係は、簡単には決着のつかない大問題です。いずれ、どこかで論ずることになりますので、今回はこの程度でご勘弁願いましょう。

<レジメ>
 「倫理学における客観性の複雑な議論の多くは、存在論(特に、『どのような倫理的対象が存在するのか』という形而上学)の観点から行われる傾向にあったが、その倫理的対象がどのようなものであるのかを理解するのは困難である。その代わり、私は、この線に沿った探求は、ほとんど役に立たず、誤った方向に導くとするヒラリー・パットナムの議論に沿って進むことにする。…倫理学は、単に特定の対象の真実の記述の問題だけではない。パットナムが論じているように、『真の倫理的問いは実践的な問いであり、実践的な問いは単に評価だけを含むのではなく、哲学的信念と宗教的信念と事実に関する信念が複雑に混じり合ったものを含んでいる』
          (アマルティア・セン『正義のアイデア』pp.83-84)。

 そもそも倫理的な問いとは何か、から始めねばならない。私たちは昨年のカント講座において、倫理と道徳の違いについて議論してきた。倫理とは、私たち人間がその人間性を維持するための基準であり、道徳とはある集団において決められた守るべき基準であった。倫理はより普遍的であり、道徳はいわば個別・地域的である。簡単にいえば、倫理的な問いとは、人間として「いかに生きるのが正しいのか」を問うものなのである。その意味では、「どう生きるべきか」を問い続けたソクラテスの問いこそが、倫理的な問いの原点にあるといって良いだろう。
 モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を、他者を誘惑することによってその存在を実存化する「生」そのものであるとして賛美したキルケゴールは、物議をかもしそうな次のような言葉を残している。
「欺かれるものは欺かれぬものよりも賢く、欺くものは欺かないものよりも善い」(中澤洽樹訳『人生行路の諸段階(上)』、人文書院、昭和24年5月、p.229)
 河上徹太郎は、彼のドン・ジョヴァンニ論をこのキルケゴールの言葉で締め、「かくも虚実常ならぬ人物が、しかも手離しで愛慾にその輝かしい実在性を賭けた時、そこに現れるモラルは何であろう。それはキルケゴールの、次のようなテルトユリアン風な逆説につきる。…そしてこれこそモーツァルトがその天才を尽くして『ドン・ジョヴァンニ』で実現した奇蹟の神髄であり、借りて以て私の結論とする」(河上徹太郎『ドン・ジョヴァンニ』講談社学術文庫、pp.80-81)
 さて、河上徹太郎が手放しで「モーツァルトの神髄」と称賛したキルケゴールの言葉を、私たちはどのようにとらえればいいのだろうか。もちろんこれは河上の言うようなモラルの問題ではない。まちがいなくパットナムの言う「哲学的信念と宗教的信念と事実に関する信念が複雑に混じり合った」倫理的な問い、そのものなのである。