8、神々とはいかなる存在か

 人間は一人では自足できないことから、さまざまな職業が生まれ、それがやがて国家へと発展していった、との『国家』の実に丁寧な説明に対して、私は「子供っぽい」とつい述べてしまいました。受講生から「国の起源をこのような形で説明したのは、プラトンをおいてないのではないか」、「子どもっぽいと言われるが、私にはじつによく国の始まり方がわかりました」と、皆さん「目からウロコ」の感服ぶりでした。「子どもっぽい」などと言ったこと、まことに恥ずかしく、赤面の至りです。頻繁に登場する「ゼウスに誓って」に、いささか違和感を覚えた、受講生もありました。

 今回は、暴挙や、汚濁、恐怖にまみれた存在としてヘシオドスやホメロスが描きあげた神々について、「神がそんなことをするだろうか」「神がそのような状態になるはずがない」などとソクラテスは疑問を投げかけ、子どもたちの教育に良くない、として、神々にからんでの恐ろしいシーンや名前を削除せよ(386C、387B)、とまで極言します。

 ヘシオドスやホメロスに見られる神々の像は、人間と同じように悩み、嫉妬し、愛し、憎み、怒る、極めて具体性をもった存在です。この人間性をプラトンは否定し、絶対的で抽象的な存在へと神々を昇華しようとしています。なぜなのでしょうか。

 プラトンが引用しているヘシオドスの『神統記』やホメロスの『イーリアス』に登場する神々が、彼らよりももっと大きな力によって、翻弄され支配されていたことをまずは知っておくことにしましょう。ここでは、F・M・コーンフォードの『宗教から哲学へ』(廣川洋一訳、東海大学出版会、1987.9)を参照(pp.18‐43)していくことに致します。

 「ゼウスに誓って」が象徴するように、ギリシアの神々のなかでゼウスが特別な存在であることは言うまでもありませんが、そのゼウスをも含めたすべての神々の命運を決めるものが「モイラ 」なのです。「運命」と訳されるモイラのもともとの意味は、「持分」「分け前」で、どの神もそれぞれの持ち分があり、支配する場所や役割などが決まっており、それを越えることはできないのです。

 自己の「全能」を自負していたゼウスが、ギリシア側に立ってトロイ側を悩ませる海神ポセイドンに苦言を呈したところ、「世界の持ち分の三分の一をハデスとともに分け合った対等の兄弟なのに、ずいぶんと思い上がったことを言うものだ」と、反撃されるシーン(『イーリアス』184行、『宗教から哲学へ』p.28-29)は、モイラの意味合いを端的に示すものです。

 その神々が、嘘、偽りを言ってないことを示すときに口にだすのが「ステュクスに誓って」です。冥府の最奥に流れているオケアノス(大洋)の支流であるステュクスは、「その流れへの誓いこそ、祝福された神々にとって、もっとも大きな、また恐ろしいもの」(『イーリアス』33行)とゼウスの妻ヘラに言わせるほどの力を持っています。

 ステュクスは、ゼウスまでも拘束する神々の恐るべき規律を示すものでしたが、やがてこの権能をゼウスが奪い、彼自身があたかも運命をもてあそぶことができるような力を持ち、これが一つの意志による「法」の始まりである、とコーンフォードは説いています(『宗教から哲学へ』p.39-41)。