8、神は自らを愛する存在として人間を創った
前回、私たちの社会がしきたりや慣習などの「見えない掟」によって縛られていること、遠藤さんは「個食」のようなライフスタイルが生き方そのものへの問いを突きつけていること、を皆さんそれぞれが問題にあげ、こうした縛りから解放することが現代において求められている課題である、と説きました。私たち人間の意識が身体を自由に操るように進化してきたとするベルクソンの生命論は、身体だけでなく人生そのものをも、自由で豊かなものへと私たちを解放する新しい哲学の予兆である気がいたします。
第二章で、知性による人類破滅への道を防止するために、潜在的本能による物語作成の力で生み出される宗教が「静的宗教」と名づけられました。この形の宗教は、国家や地域レベルの「閉じた社会」ではそれぞれの行動規範を与えてはくれますが、人類的な「開かれた社会」における普遍的な道徳にはなりません。
ベルクソンは、「無限の歓喜」に包まれる神秘家の「見神」や古代ギリシアのプロティノスの「観想」に、開かれた社会の道徳に到る方向性を見ています(同p.270)。魂が「思惟」と「感情」において神とともにありながら、「意志」はいまだ神の外にある状態(『道徳と宗教の二源泉』p.282)から、「無限の飛躍」(同p.283)によって魂のなかで神が働いているものが現れ、生命の源泉である神そのものからの真理の流れ込みを感じる者が現れてきます(同pp.283-285)。彼らは「神によって、神を通して、神的な愛で全人類を愛する」ようになり(同p.285)、人類全体のための「動的宗教」を生む源となると、ベルクソンは考えるのです。
「神は、我々を愛するためでないとしたら、なぜ我々を必要とするのだろうか」(同p.312)とベルクソンは問いかけ、神秘主義者の言葉「我々が神を必要とするのと同じように神もまた我々を必要とする」に同意します(同p.311-312)。「『創造』とは、創造者を創造するための、その愛に値する存在を助手として使わんがための神の一つの試みである」(同p.312)「創造的エネルギーは愛であり、それは愛されるに値する存在を自分自身から引き出そうと欲するだろう」(同p.313)とするのが哲学者ベルクソンの結論です。そしてこの見解は、彼自身の「創造的進化」の結論を超えていると付け加えています(同p.313)
現代に照らせば、宇宙は自分を愛してくれる存在として人間を長い時間をかけて生み出した、とでもいえるこの壮大な物語を信じるか信じないかは、皆さん自身にお任せすることにいたしましょう。ここでは、映画のフィルム一枚一枚(静止画)とそれが連続的に映写されて生まれる動画を例えにして、イデアと流動する現象との関係に新しい視野を開いたベルクソンの見事な手法を紹介しておきたいと思います。
森羅万象を不生不滅にして不変な一者であるイデアの影として考えるプラトンのイデア論は、キリスト教の天国や仏教の涅槃にも通じ、共通した私たちの理想郷への憧憬を表しています。ベルクソンは、このような思考方法は、映画の中のたった一枚の静止画を抜き出して、映像全体を包含した理想的な実在(イデア)とみなしているに過ぎない、と考えます。個々の瞬間は一種の幻影のようなもので、運動や時間の流れ=「持続」そのものこそが実在である、とするベルクソンの考え(同p.298)は凄くないですか。