8,私はワーグナーを麻薬として必要とした

 今回は、ニーチェとワーグナーの関係を独白している『この人を見よ』(「なぜ私はかくも怜悧なのか」五~六、pp.62~67)を取り上げます。
 
 ニーチェはここで、「私を心の底から休養させてくれたものと言うのは、何の疑念もなく言うが、リヒャルト・ワーグナーとの親しい交際であった」「私の一生の中から、どんな高値に代えてでも売り渡したいとは思わない、信頼と快活と崇高な偶然に満ちた日々―深い刹那に満ちた日々で会った」(p.62)と回顧しています。
 
 ここでも「ドイツ人が近寄って来ただけでも消化が悪くなるほどの人間」(p.63)とドイツへの嫌悪を口走るニーチェは、ワーグナーを「「外国として受け止め、いっさいの『ドイツ的美徳』に対する対極者として尊敬して来た」(同)と語るのです。そして、ワーグナーを「ドイツ人から脱走した革命家」(p.63)とまで言ってのけています。
 
 さらに、芸術家にとってパリ以外にヨーロッパに故郷はない、とパリ賛美の持論を繰り返し、ワーグナー芸術の前提を「五官のすべてに宿る芸術感覚の繊細さ、ニュアンスを感得する指、心理的な腺病体質」など「パリだけに存在するものだ」と、言い切るのです。 
 
 ワーグナーへの傾倒は、レオナルド・ダ・ヴィンチの異様な魅力も、楽劇『トリスタン』の最初の一音で魔力を失ってしまうだろう、とまで形容(p.66)するのですから、驚くほどのワーグナーかぶれですね。そして、ワーグナーをドイツ的なものに対するすぐれた「対抗毒」とし、「私はワーグナーを麻薬として必要とした」(p.65)と述懐しています。しかし、あるとき、ワーグナーは結局ドイツ人たちに迎合したと感じ、「ワーグナーを断じて許さなくなった」(p.65)と結論するのです。
 
 ニーチェとワーグナーの関係を音楽家の立場から詳述した本に、オペラ歌手ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの『ワーグナーとニーチェ』(荒井秀直訳、ちくま学芸文庫)があります。ここには、牧師夫婦の子として生まれたニーチェが、9歳のころに音楽に強い関心を示し、聖書の言葉に音楽をつけることによって作曲を始めたこと、文献学者としてライプチヒにいたとき楽劇『トリスタン』と『マイスタージンガー』を生で聴く機会を得て、「神経という神経がぼくの身体のなかでうちふるえる」「感激で我を忘れるほどの気持ちがいつまでも続くのを久しく経験したことがない」(同書p.10)とまで語った、と紹介されています。

 そのワーグナーに対し、その後ニーチェが、彼のドイツ的大衆迎合へのにじり寄りを感じて決別したことは、これまでも何度か取り上げました。そのことを、フィッシャー・ディースカウは「哲学の栄光と聖者の法悦によって世界を自己の芸術の下に屈服させようと試みたワーグナーに対し、後のニーチェは反発せざるを得なかった」と分析してています(同書p.46)。