8.「存在の大いなる連鎖」をめぐるルソーVSヴォルテール

 前回は、『カンディード』の結語「ぼくたちの庭を耕さなければなりません」を巡って、たくさんのご意見をいただきました。「神を通して考えるのではなく、自分の考えで生きて行け」「難しいことを考えず、目の前のことをやっていこうよ」「退屈、不品行、貧困の三つの不幸を労働は遠ざけてくれる。最大なのは退屈」
 
 「世の中にうまい話はない。現実の未来は自ずとできあがる未来と、自分の作り出す未来とで成る(アラン)」「人生を語らず。いまを確かめろ。最善説は、神にとってのものに過ぎない」「自分が原因になるようにせよ」「児童作家の浜田広介の言葉、君たちは心を耕さねばならない、を思い出しました」

 「庭とは社会のこと」「自由を求めて田舎に行く人たちがいる反面、図書館などの整っている都会のほうが、かえって人を自由にする側面がある」。皆さんのご意見を重層的に重ね合わせたものがおそらく正解で、退屈の是非をめぐる議論もなかなか愉快でした。

 今回は、ヴォルテールの「リスボン大震災に寄せる詩―あるいは『すべてが善である』という公理の検討」(1756年)に対して、ルソー(1712-1778)の大反論「あなたを兄のごとく敬愛し、師のごとく尊敬しながら、…私は遠慮なく(この詩の)敵方にまわることになります」(ヴォルテール氏への手紙p.12)を見ていくことにしましょう。

 「あなたの詩篇は苦しみをかきたて、私を不幸にかりたてて、希望をくじいてしまううえに、私からすべてを奪い取って、私を絶望に追いこんでしまいます」(同)と書き出したルソーは、リスボンの災禍は大都市に人々が密集して住んだためで、砂漠で同じような地震があったとしてもだれも問題にしなかっただろう(pp.14-159)とし、神の善性に疑問を投げかけるヴォルテールに対し、ある種の”人災“であることをにおわせて強く反発しています。結語の言葉は、ルソーからの”離縁状”でしょうか。

「栄光に満ち足りて、空しい栄華から覚めたあなたは、あり余る富のなかで自由に生きておられます。不滅を確かに確信して、あなたは霊魂の本質について哲学上の問題を平穏に思索しておられます。しかし…あなたはこの世では悪の存在にしか気がつかないのです。そしてこの私、無名で、貧乏で、ある不治の病に苦しめられている私は、隠遁地で瞑想にふけることに喜びを覚え、すべては善であると思っています。この明らかな食い違いは、いったいどこに由来するのでしょうか。…あなたは楽しんでおられるのですが、私は希望をもっているのです。そしてその希望がすべてを美しいものにするのです。…

 私はこの世であまりにも苦しみましたので、あの世の生を期待せざるをえません。形而上学のありとあらゆる精細な議論は、霊魂の不滅と慈悲深い神の摂理に一瞬たりとも疑問を抱かせることはありません。私は神の摂理を感じ、信じ、望み、期待しています。そしていまわのきわまでこれを守りぬくつもりです」(pp.29-30)

 本日は、この手紙の中で登場する「存在の大いなる連鎖」(p.17、p.34中14)について、議論をすることにいたしましょう(アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』晶文社)。すべての存在が隙間なく密接につながっており、どの一つとして無駄なものはないという18世紀にブームとなった考えを明確に否定するヴォルテール(手紙p.17)に対し、論戦を挑むルソー。さて、皆さんはどちらの立場を支持しますか。