9、『国家』に秘められたプラトンの意図

 前回は、神々の恐ろしいシーンは教育上良くないから削除すべきだとの『国家』におけるソクラテスの言明に対し、受講生のお一人から「臭いものにふたをするような姿勢はいかがなものか」と、プラトンに対して強い異議が出されました。「プラトンはこの程度のもの」と、思われかねない表現のもつ危うさにプラトンが気づきもしなかったとしたら、同じような個所で、「まったく気づかない無知」の始末の悪さを指摘しているプラトン(『国家』382B-C)が、その無知の中に自分が落ち込んでいることに気づかないことになり、滑稽を通り越して、何をかいわんや、となりますね。

 とすると、プラトンがあのような表現でホメロスやヘシオドスの記述に異議をたてる理由があった、つまりある種の戦略的な意図があった、と考えるのが筋でしょう。プラトンは、何のために、そして誰のために『国家』を書いたのでしょうか。

 コーンフォードの高弟ガスリーは、プラトンの時代にギリシアの文明は「自然哲学」「ソフィスト」「神秘思想」の三つの分野から“攻撃“を受け、栄光に彩られていた社会は危機的状況に陥っており、プラトンは「その全力をギリシア文化と都市国家擁護のために投じた」と分析しています(ガスリー『ギリシアの哲学者たち』式部久・澄田宏訳、理想社、pp.111-113)。そして、生涯の最盛期に書いた『国家』と、晩年の『法律』で演じた主題は、「都市国家の廃止ではなく、その浄化と強化によって社会を改造しようとした」(同p.113)、と考えています。

 ガスリーの指摘は、当時のアテナイの“堕落した”社会情勢を憂えたプラトンが、ゼロからの国造りを構想することによって、新生「アテナイ」の構築を目指した、と要約できます。なかでもプラトンにとって極めて大きな問題であったのが、経済的繁栄による奢侈や享楽におぼれる堕落よりも、神々に対する “堕落”だったのではないでしょうか。

 人々は神々の堕落と鷹揚さをいいことに自堕落を糊塗し、捧げものによる免罪を日常化するようになりました。これは、プロタゴラスの「人間が万物の尺度である」に象徴される、おもにソフィストたちがギリシア世界に広げていった「相対主義」(悪く言えば究極の利己主義)的世界観によって助長され、国の存立を危うくするほどの社会秩序の乱れを生み出していました。『国家』は、絶対的な中心「神」を失ったギリシア世界に、新しい中心「哲学」をたて、人間としてあるべき秩序をもった都市国家を提示しようとしたプラトンの挑戦状だったのではないでしょうか。

 ちなみに、プラトンが提示している教育法は、ドロシー・ロー・ノルト「Children Learn What They Live」『子どもが育つ魔法の言葉』PHP文庫)の詩的な言葉と同じ意味にとらえれば、時代を先取りしたものだと思います。「恐れとともに育った子は恐がりになり、いつくしみのなかで育った子は、世界が住むのに素晴らしい場所だと思うようになる」