9、『昼』『夜』『曙』『夕』

 「彼はフィレンツェの市民(ブルジョア)であった」と『ミケランジェロの生涯』の冒頭を書き出したロマン・ロランは、ミケランジェロを育んだフィレンツェのことを

 「-陰気な宮殿、槍のようにとがった塔、くっきりした線のなだらかな丘並が、細い糸杉の黒い紡錘(つむ)や波のようにさざめく橄欖の銀色の被布でおおわれて、すみれ色の空に美しくきざまれている。あのフィレンツェーロレンツォ・ディ・メディチの蒼白い皮肉な顔や、大きく狡そうな口をしたマキャヴェッリが、金髪のボッティチェリの「春」や黄みがかったヴィーナスたちとゆき会ってであろう、鋭くて優美なフィレンツェ。
…」(『ミケランジェロの生涯』p.11)

画像の説明

 と書き綴っていきます。
 ミケランジェロは、のちに教皇クレメンス7世(在位1523-1534)となる、ジュリオ・デ・メディチ枢機卿から、メディチ家のサン・ロレンツォ聖堂に附属するメディチ家礼拝堂の造作をまかされていました。1524年春にミケランジェロは模型を作り始めましたが、神聖ローマ帝国軍のローマ略奪(1527年)などの大動乱の時代に入り中断。混乱の中でフィレンツェ市民はメディチ家を追い出し、共和国時代(1529-1530)を迎えることになります。

 ミケランジェロは共和国軍に身を投じ、城砦の建築などにあたることになりますが、教皇軍などの前に共和国の市民軍は敗退、ミケランジェロはヴェネチアに逃げ、さらにフランスに逃亡しようとしましたが、結局、フィレンツェに戻り、クレメンス7世の許しを得て、再びメディチ家礼拝堂の仕事を続けることになるのです。

 混乱の時代のミケランジェロの苦境と苦悩を、ロマン・ロランは書いています。

「世間の物事にも自分自身にも、あらゆるものに対する嫌悪は彼を、1527年にフィレンツェに勃発した革命に投げ込んだ。その時までミケランジェロは政治問題に対して、自分の芸術についていつも悩んでいたと同様に不決断だった。かつて一度も彼は自分の個人的感情とメディチ家に対する義務とを一致させることができなかった。その上、この激烈な天才は行動においては常に臆病だった。政治や宗教の面で社会的な有力者と争うことなどということはとてもできなかった」(p.62)。
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 『夜』
 何か危険なことがあると、家族に向かって「まっ先に逃げよ。…財産よりも生命が大切だ」と指示するのが常だったミケランジェロのことを、ロランは「この偉大な人間の不断の動揺にはひっきょうわらうべきものは一つもなかったのである。むしろ彼の気の毒な神経を思いやるべきであった。これのために彼は恐怖の弄びものになり、その恐怖と闘いながら、打ち勝つ力がなかったのである」(p.63)と書くのです。

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           『昼』
 ごく短い共和国生活のなかで、彼が味わった恐怖や屈辱は、ロランの描写(pp.62-75)にまかせることにしましょう。私たちは、1531年までには完成した礼拝堂新聖具室の見事な彫刻群に、目を転じることにしましょう。『昼』『夜』『曙』『夕』の4体は、ミケランジェロの精神の奥行きを思う存分に見せてくれる傑作です。皆さんは、そこにこの天才の、何を見ますか。