9、ハーバマス いったい誰がカントなしで

           済ますことができるだろうか。

 今回(2013.3.5)は、ハーバマスの論述を通じて、カントの現代的な意義について考えてみましょう。テクストの補助として、ユルゲン・ハーバマス『他者の受容―多文化社会の政治的理論に関する研究』(高野昌行訳、法政大学出版局、2004.12)を使います。ここから、カントの晩年の作『永遠平和のために』の現代性について述べた「第Ⅱ部政治的リベラリズム 3「理性的」対「真」あるいは世界像の道徳 Ⅶ リベラリズムの眼目」を簡単に紹介しましょう。

 ハーバマスの分析によれば、現代における何が正義かをめぐる文化的な対立は、「道徳的自由」と「倫理的―実存的自己決定」の対立、と考えられる。「道徳的自由」とは、カントがまさに提示した、人は普遍的な立法に自己の格律を合致させることができるときに、道徳的な自由を得る、というものである。この考え方は、常に、普遍的な立法とは何か、そもそも、そのような法が存在するか、という議論を招くことになる。これに対して「倫理(ethics)」は、語源のギリシア語エチカが習慣の意味を内在しているように、ある集団、あるいは個人が慣習として正しいものだとみなす行為基準である。

 倫理は「個人の生活史や間主観的に共有された伝統といったコンテクスト内で形成されてきた、個人あるいは集団の自己理解の信憑性によって測られる」すなわち「コンテクストに依存して」おり、「非―公共的」なものである(同書p.123)。倫理の基準に傾くと、何が正しいかは、集団や個人によって当然異なることになり、相対主義に堕す危険がある。しかし、民主的国家における代表的な考え方「政治的リベラリズム」(あるいは「法治国家リベラリズム」)は、個人の生活は国家の干渉から守らねばならいないという「直観」から出発するこの倫理主義の立場に立っていることになる。それは、自らの人生の作者であるものこそが自由であるという実存主義の立場に通じるものである。

 しかし、カントの説く「道徳的自由」は、いささか別の直観から出発している、とハーバマスは指摘する。それは「他者の自由を犠牲にしては、誰も自由ではありえない」という直観である。「人は社会化という道を通ってのみ個人となるのであるから、個人の自由はすべての他者の自由とただ否定関係にあるのではなく、対立的境界を超えて結びついている。むしろ共同で実行される自己立法の成果が、正しい境界を設定するのである」と、ハーバマスはカントを受けて持論のコミュニケーションによる「合意形成」の重要性を説く。「自由で平等な人々の連合においては、全員が自らを、受け手として個々に拘束されていると感ずる法律の作者として理解しなければならない」とハーバマスは続け、「民主的プロセスの中で法的に制度化されている公共的理性使用が、平等な自由を保証する鍵なのである」と結論するのである(同p.125)。

 簡単に言えば、相互理解による合意によって「公共的」な「理性」なるものが、一つの集団の中に生まれる。それぞれの「縁」でつながった幾つもの異なる集団が重なり合っているのが世界である。それぞれの「縁」同士も、実は「対立的境界」を超えて結びついているはずであり、世界は大きな公共圏として、相手(他者)の自由を認めながら共通の理性によってくくることができる、というのがハーバマスの信念であり、これこそがカントの「世界市民法の理念」に通じるものである、という。

 カントがすでに『永遠平和のために』のなかで、「世界市民法の概念は、空想的なものでも誇張されたものでもない」(カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』中山元訳、光文社、pp.190-191)と言い切っていることをハーバマスは、「今日ようやく姿を現しつつある世界規模の公共圏に対する、彼の鋭い予測の大胆さを物語るものである」とエールを送る。世界規模の公共圏とは、インターネットに象徴される「誰もが見通せ、文字によって表現され、議論に対して徹底して開かれた」空間のことであり、カントが電子メディアなど考えられない時代に予測したことに対して、ハーバマスは大きな敬意を払うのである(ハーバマス『他者の受容―多文化社会の政治的理論に関する研究』p.202)。

 ハーバマスのカント議論は、持論のコミュニケーション理論に合わせて、カントをいささか都合よく解釈している観がなくはないが、カントの先進性をとらえ、私たちが、どこに向かうべきかについて、示唆を与えている点で評価すべきであろう。ただし、異なる文化同士が、いかに対話を進めても、ハーバマスの期待する「合意」がなかなか得られない現状を、どのようにして解決していくか、現実の壁は残念ながら大きい。

 それでも、私たちは「個々の人としてはどれほど悪に満ちていたととしても、人類全体としては善へと向かっていく」というカントの予言あるいは信念を、信じたいものである。

 ちなみに、道徳(moral)は、ラテン語のmoralis(行儀に関係する「習慣」)から来ている。カントは哲学を物理学の原理に従う「自然哲学」と、自由の原理に従う「道徳哲学」(Moralphilosophie)に分け、道徳哲学は詳しくは「理性が自由概念に従って行う実践的立法」と定義している(カント『判断力批判(上)』(篠田英雄訳、岩波に文庫、p.22)
 
 今回は、「倫理」と「道徳」とはどう違うか、について、皆さんの感じ方を聞かせていただいた。カントの「内なる格律(Maxime)を普遍的立法に合うように行為せよ」の言葉に従うならば、
 
 格律     倫理
 普遍的立法  道徳

 となろう。倫理は「内なる声」に従うもので、個人的なように見えてその本質は、人間としての良心につながるものである。これに対して道徳は、社会内で形成されたルールやマナーに従うもので、言ってみれば「外からの声」に合わせるものである。

★受講生の方々には、以下のレジメを配布しました。

 カントこそ混迷の現代における救世主かもしれない。

ハーバマス いったい誰がカントなしで済ますことができるだろうか。
(『未来としての過去ーハーバマスは語る』未来社、pp.146-147)

「意識哲学は、デカルトからカントを経てフッサールに至る認識論上の根本問題から出発して、主観性、つまり表象する主体の客体に対する彼自身の表象との関係を考察してきたのだが、それは我々がいまだに引き合いに出す豊かな伝統である。いったい誰がカントなしで済ませられることができるだろうか。意識哲学に対する偉大な批判者―一方におけるハイデガー、他方におけるヴィトゲンシュタインーは今日では、いわば過剰評価され、コンテクスト主義的な解釈という形で第二の歴史主義に合流する語用論的な転換を開始している。総じて言語哲学は、もはや、世界創造の主体―あるいはその環境を内面的に写し取るシステム―というものを前提とはしていない。それ故、言語哲学は、すでに言語的に解明され、間主観的な形で共有された生活世界の内に存在している、コミュニケイション的に社会化された主体と主体との間の合意という新しいパラダイムによって古くからの問題の水準に再び到達し得たのかどうかという事が、問われることになる」(『未来としての過去ーハーバマスは語る』未来社、pp.146-147)

 いうまでもなくハーバマス(1929-)は現代を代表する現役の哲学者である。その彼が、ハイデガーやウイトゲンシュタインを差し置いて、いま、私たちに必要なのはまさにカントである、と宣言しているのである。なぜ、ハイデガーやウイトゲンシュタインではだめなのか。そのことをここでは「縁」をキーワードとして手短に述べておくことにしよう。
 ハイデガーの哲学は、「気にかける」ことによって、世界がつながる、と考える。鉢植えの植物を誰も気にかけなければ枯れてしまうように、東日本大震災の被災者のことを誰も気にかけなければ、復興は死んでしまう。だが、「気にかける」は、常に「おせっかい」と裏表にある。被災者の意向とは無関係な気遣いは、ときに迷惑であり、逆効果になる。ウイトゲンシュタインの言語論は、私たちに「文脈を読む」ことを教えてくれることによって「語用論」へと発展した。「今日は寒いね」と夫が言ったとき、妻は夫が上着を欲しがっていると考えたり、気を利かしてストーブに火をつけたりする。しかし、夫が会社で同じことを言えば、それは同僚らへの単なる挨拶言葉だったり、部下に対して仕入れの変化を促す指示になったりもする。被災者たちのさまざまな声を解釈して、何かを行い、何かをしようとしている私たちは、どこまで彼らの声を理解しているといえるのだろうか。
 東日本大震災の被災者と私たちは、異なる「縁」の集団、すなわち価値観や利害を異にする集団に属している。その価値観や利害を「合意」に導く「公共的理性」というべきものがコミュニケイション行為によって顕現する、とハーバマスは考えている。