9、地球以外の惑星に理性的存在がいると考えることは…

★この日の講座は、ハイデガーの「ふたつの無」から入りました。

「自分の存在に気づいている存在」であるとして、人間のことを定義したハイデガーが人間の在り方として究極に目指した境地は、

無我
無私

の二つです。

 無我は「無我夢中」の無我。ひたすら自分の行為に熱中している状態です。簡単に言えば、何かを夢中でやっていて「我を忘れている」状態のことです。

 無私は「無私無欲」の無私。ひたすら他者のことばかり考えていて、自分の存在がない状態です。マリア・テレサのような人を思い浮かべればわかりやすいでしょう。

 ハイデガーは、この無の状態にあるとき、私たちは「開かれた」状態にある、と考えたのです。開かれた状態のとき、私たちはすべての世界とつながることになります。

予定テーマ
現代宇宙論が描き出す世界像は、私たち以外にいくつもの世界が存在する可能性を示唆している。「未知との遭遇」はあるのだろうか。

地球以外の惑星に理性的存在がいると考えることは臆見にすぎない。
「認識され得る物は次の三種である、即ちー臆見に属するもの、事実に属する物、および信に属する物である。…地球以外の遊星にも理性をもつ住民が存在するという想定は、臆見に属する事柄である、我々がこれらの遊星に近づくことができるとしたらーこのことはそれ自体としては可能である、―かかる住民の存否は経験によって決定され得るからである。しかし我々はとうていこれらの遊星にそこまで近づくわけにはいかないだろう、してみるとこの想定は、やはり臆見に止まるわけである」(カント『判断力批判(下)』岩波文庫、p.200)

★サブ・テクスト:ベルナール・フォントネル『世界の複数性についての対話』(赤木昭三訳、工作舎)
:映像「宇宙の果てを求めて3/3―宇宙は一つではない」

 地球以外の惑星に、理性的存在者がいないだって? 本当だろうか。すでにカントの『判断力批判』の出版を遡る100年もの昔(1686年)に、フランスの作家フォントネルが、現在でも感心するような形で、地球外の知性存在者の物語を書いていたというのに。
 この本は、出版されるやいなや大ヒットとなり、同じ年に3版を重ね、百歳寸前まで生きたフォントネルの生存中に33回も重版に及ぶ17、18世紀屈指のベストセラーとなった。その内容は
 第一夜 地球は自転し、また太陽の回りを回る惑星であること。
 第二夜 月は人の住む地球であること
 第三夜 月世界の特徴および他の惑星にも人が住んでいること
 第四夜 金星、水星、火星、木星、土星の世界の特徴
 第五夜 恒星はすべて太陽で、それぞれがその世界を照らしていること
 第六夜 これまでの対話で示された考えの正しさを確認させる新しい考え方と天空においてなされた最近の発見
 
 それから三百年を経た現在、私たちは地球以外のどこかに、よく似たか、私たち以上か、あるいは単なる原始的な存在なのか、いずれにしても何らかの形の「生命体」の存在を考えざるを得ない状況に来ている、と言えるだろう。それどころではなく、現代の宇宙論では、宇宙そのものが一つではない、との考え方までが唱えられている。それは、カントが惑星に生物が存在するとの考えを「憶測」と片付けたものと違って、ミクロの世界を描き出す量子論が結論づける一つの「必然」である。
 フォントネルは「月の人たちは旅行の訓練中で、もっと経験を積んだら、彼らに会うこともあるでしょう。そのときは驚きでしょうね」と主人公に言わせている。私たちは「未知との遭遇」を真面目に議論する時に来ているのか。それとも、まだまだ遠いSFの世界の出来事に過ぎないのか。