9、弁論術VS哲学的問答法

 お配りしているプラトンのソクラテス対話篇『ゴルギアス』(加来彰俊訳、岩波書店)は、弁論術(ῥητορικήレトリケ)とはいかなる技術(テクネー)なのかを問い、弁論術の名手を自認するゴルギアスとは「そもそも何者なのか」を問いかけるものでした。弁論術は、ソフィストが人々を説得するための一つの「型の提示」とも言えます。これは、第二回に受講生のお一人が問いかけた「哲学も技術だとすれば、それはいかなる型なのか」と交差するものです。「哲学的問答法」は、ソクラテスの言論術を規定する一つの「型」であると言えるでしょう。
 
 『ゴルギアス』の中でソクラテスは、靴屋は靴を作り、機織屋は服を作る、音楽家は音楽を作る、では、弁論家は何を作るのか、と質問を始めていきます。ゴルギアスは、弁論術は、何かを作る「行為」の技術ではなく、人々を「説得する」技術であると語っていきます。

 「法廷では裁判官たちを、政務審議会ではその議員たちを、民会ではそこに出席する人たちを、その他、およそ市民の集会であるかぎりの、どんな集会においても」(452E)説得できる技術であり、ソクラテスがあげている人生の三大「善きもの」作成者である医者(健康)も、体育教師(身体の整え)も、実業家(財産形成)も、みんなこの説得術の「奴隷になる」(同)とまで、ゴルギアスは言い切ります。

 これに対してソクラテスは、弁論術は技術に値するようなものではなく、料理法や化粧法と同じような熟練の技に過ぎず、「迎合κολακείαコラケイア」と呼ぶ政治術の一部門に過ぎない、とこき下ろします(463A-B)。ギリシア語の「コラケイア」は、「お世辞を言うこと、ご機嫌とり、ごますり、こびること、へつらい」のことで、コラケイアの本質は、本当はそうではないのに、そうであるように思わせること、である、とソクラテスは断じるのです。

 みせかけでごまかす意味では、化粧法はぴったりのたとえですし、出自も不明なあやしげな食材がふんだんに使われている外食の例を見るかぎり、料理も「コラケイア」であると言われると、うなずかざるを得ないかもしれません。
ゴルギアスの弁論術は、相手に「そう思わせる」一つの錯覚の術と言ってよいでしょう。説得されるということは、ほかに多様な道があるにも関わらず、一つの道しかないと、思わされてしまうからです。

 ソクラテスがもっぱらにした「哲学的問答法διαλεκτικήディアレクティケー」は、対話によって相手に覚醒を促す哲学的手法の一つです。答えに対し「そうでしょうか」「ほんとうにそうですか」と問いかけるスタイルは、一見、相手を答えに詰まらせるいじわるな手法に見えます。しかし、哲学的問答法は、がんじがらめになっていた心の状態から私たちを解放し、多種多彩な道があることを示してくれるのです。つまり私たちは、鎖に縛られた奴隷の状態から、自由になるのです。

 それがソクラテス問答法の本質であり、「覚醒」を促す産婆術の正体なのです。

 哲学的問答法の特徴を示した『パイドロス』(藤沢令夫訳、岩波書店)の一節(266B-C)と解説(pp.306-309)、ソフィストの言論術を規定した『ソピステス』の一節(234E-235C)も、参考までにお配りしましょう。