9、理性的な人々とは誰のことか

 「ロールズが、しばしば『理性的な人々』に言及し、それをはっきりと使っているが、私は、ロールズが『理性的な人々』と分類する人々と、その他の人々の間に大きな差を設けることはしない。別のところで私は、偏見を持たずに情報を受け入れ、違う立場の人たちの議論を熟考し、根底にある課題をどう見るべきかについて双方向の討議を行うことによって、概して我々はすべて理性的でありうると論じたことがある。私はこの推定が、『道徳的能力』を持つ『自由で平等な人々』というロールズ自身の考え方と根本的に違っているとは思わない。ロールズの分析は、『理性的な人々』をその他の人々から分ける分類というよりも、熟慮する人々の特徴付けに焦点を合わせているように見える」
         (アマルティア・セン『正義のアイデア』pp.86-87)

 「理性的な人々」とは、そもそも誰のことなのだろうか。非理性的な人々ならば、感情に走って正しい判断のできない人々、などと簡単に表現することができるだろう。だが、理性的な、とは、冷静な、と同義語なのか、それとも感情に走らない、という方がより近いのだろうか。
夏目漱石は『草枕』で書いている。

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」

 この状況を、仮に「草枕のジレンマ」とでも名づけることにしよう。理性的な人々とは、草枕のジレンマから解放された、「智に働かず」「情に流されず」「意地を通さない」人々と定義したらどうだろうか。

 ロールズは「理性的な人々」を、「道徳的能力」を持つ「自由で平等な人々」、と定義している。道徳的能力とは、どの社会でもそこの規範を守れる能力、と簡単に言い換えることができるが、自由で平等な人々をどう記述するかは、極めて難しい。自由で平等な人々とは、他者の権利を守りながら自らの自由も守る人々、とでも言うのがせいぜいだろう。しかし、現実の中に一歩でも身を置けば、私たち夏目漱石の言うジレンマに落ち込んで「兎角に人の世は住みにくい」と慨嘆するにちがいないのが落ちなのではないか。

 ロールズやセンが腐心しているのは、いかにしたら現実の世の中で「草枕のジレンマ」に陥らない状態を現出できるか、であろう。センは、「偏見を持たずに情報を受け入れ、違う立場の人たちの議論を熟考し、根底にある課題をどう見るべきかについて双方向の討議を行うことによって、概して我々はすべて理性的でありうる」と言う。そこから、私たちは「草枕のジレンマ」を回避できるだろうか。徹底的に議論しましょう。