9、花伝書とハムレット

 今回は、観阿弥の話を息子の世阿弥がまとめた「能」の奥義『花伝書』とハムレットの関係を、がやがやとお話できれば、楽しいと思います。といって、その二つの直接的な関係うんぬんは無理な話ですから、「芝居」をめぐる奥義とは何か、との問いを立てようと思います。『花伝書』が書かれたのは、1400年代の始めであり、これはシェークスピア(1564-1616)の生きた時代より、実に百年以上も昔のことになります。そこに書かれた内容から、ハムレットを逆照射してみるのも面白いのではないでしょうか。

 能とシェークスピア劇との大きな違いは、能は「動き」その発展形としての「型」によって人間の本質を露呈させます。いわば「身体化」による人間の本質表現です。これに対して、シェークスピアは「言葉」によってそれを見せようとした、と言えるかも知れません。

 「シェークスピアというのはまさに『言葉の洪水』ですから、何を言っているのか分からなくなった時点で、もうお客さんの方には何も伝わっていきません。それこそ演者の一人芝居になってしまいます。ですから言葉は確実に正確に伝えなければならないのです」(ハムレット役者の吉田鋼太郎)「言葉の持つ想像力に訴えるという古典的な手法の存在意義がシェークしピア劇にはあるということは明らかだと思います」(野村萬斎)(野村萬斎『MANSAI解体新書』朝日新聞出版、p.86とp.92)。

 シェークスピアは「芝居というものは、昔もいまも、いわば自然にたいして鏡をかかげ、善はその美点を、悪はその愚かさを示し、時代の様相をあるがままにくっきりとうつし出すことを目指しているのだ」とハムレットに言わせています(第三幕二場、小田島雄志訳『ハムレット』pp.118-119)。

 これをとらえて野村萬斎は「これがシェークスピアの演劇観だとすれば、演劇とは自然の一部である人間をそのまま映す鏡のようなもの、ということなのでしょうか。『演劇は社会を映す鏡、時代の鏡』ともよく言われることですが、…もっと身近なこととして自分自身のことが見えてくる『鏡』であることも知っていただきたいのです」(『MANSAI解体新書』pp.30-31)と言っています。

 『花伝書』もまた、人間「そのもの」を観客に示すための方図を、第一に説いています(真似について)。それは、単に表面的に似せるのではなく、人間の本質とは何か、に向かって、芸によって現わす真髄の探求でした。観客は、能を通じて、自らの本質を逆に垣間見ることによって、「人間とは何か」を知らされ、感動するのです。

 『花伝書』の次の指摘は、奥義中の奥義と言えるかも知れません。「芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、加齢延年の法なるべし」「ときに応じところによりて、おろかなる眼にも、実にもと思う様に、能をせむこと、これ寿福なり。…いかなる田舎・山里のかたほとりにても、その心を受けて、ところの風儀を一大事にかけて、芸をせしなり」(『花伝書』pp.65-67)。

 芝居とは、万人の生活状況に合わせて自在に変容させるべきものであり、その観客すべてがいわば「生きる力」を得て、健康長寿になることを、能を通じて観阿弥・世阿弥は目指したのです。なんだか、すごいこととは思いませんか。