9、複雑化と単純化-人間はどちらに向かうのか

  前回は、「何が宗教の源泉なのか」、についてさまざまな考えが出されました。「祈り」「ねだりと感謝」(奥田)「生存をかけての願い」。今回は、『道徳と宗教の二源泉』において結局のところベルクソンは何を言いたかったのか、について率直なご意見をいただきたいと思います。
 
  第四章「結びー機械学と神秘学」は、科学の発展によって世界は「贅沢」「快楽」「安楽」への道へ「狂乱」しているとし、「生活の単純化」による「快楽」から「歓喜」への転換を「神秘的直感を世界中に伝播」することによって実現することを、最終的には目指すものです。
 
 ベルクソンはいつもの二分法によって、私たち人間のあり方が、主人/奴隷(ニーチェの区分け、p.342)、立法者/臣民(カントの区分け、p.346)、人間は人間に対して神である/人間は人間に対して狼である(ベルクソン自身による区分、p.352)、などと分けられることをあげ、これらはすべて私たち自身の中にある二つの傾向であることを指摘します。これを「対生の法則」と名づけ、この法則の中に推進力/静止力という二つの力を見つけ、さらにその根本には弛緩/緊張という二つの傾向があることを見出すのです。

 この傾向は、ソクラテスの時代から快楽を本質とするエピクロス派と禁欲を旨とするキュニコス派に見られ、これをベルクソンは生活の「複雑化/単純化」ととらえ、人間は大航海時代から生活の複雑化による「虚栄」「傲慢」「贅沢」「快楽」「安楽」のとめどもない「嗜好」へと突き進んでいる、と断じるのです(p.372)。

 ヘーゲル哲学から人間の未来の姿を考究したロシア生まれの哲学者アレクサンドル・コジェーヴ(1902-1968)は、面白いことに、アメリカ社会に「鳥が巣を作り蜘蛛が巣を張るように、蛙や蝉のようにコンサートを開く動物化する」人間を見ています(アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精・今野雅方訳、国文社、1987.10、p.245-246)。

 逆に、能楽や茶道や華道といった形式的な価値に埋没できる日本人の生き方に、動物的ではない人間のあり方を見、日本と西洋社会の交流は「西洋人を日本化するだろう」と述べています(同、p.247)。ただし、コジェーヴは能楽や茶道などを「スノビズム=貴族趣味、悪く言うと俗物根性」と表現しているが、これはまったくの無理解で、むしろ、ベルクソンの言う「生活の単純化」による美的な生き方、と言うべきでしょう。

 ともあれ、アメリカ社会と日本社会とをどちらも実地に体験したコジェーヴの比較は、ベルクソンの言う「快楽/禁欲」の「対生の法則」が、「アメリカ型行き方の本質/日本型行き方の本質」、として現れている、と見ることができると思います。日本を含めた現代文明の兆候は「贅沢」「快楽」「安楽」の権化である欲望を基盤とした動物的生き方に向かっているようですが、食や建築の分野で、コジェーヴが認めた日本文化の本質を世界の中で求める傾向が出ていることは、なかなか興味深いですね。

 ベルクソンの求める「歓喜」につながる生き方は、神の愛が人類のすべてに行き渡ることを「祈り」「願う」動的宗教の究極形と考えればいいのでしょうか。