9、遊女ネアイラの物語

        一女奴隷の数奇な人生

 これまでプラトンの『法律』を通して透かし見て来た古代ギリシアの奴隷制度や女性の置かれた状況を、現実に残された裁判記録から具体的に復元してみることにしましょう。デブラ・ハメル『訴えられた遊女ネアイラ』(脇本由佳訳、草思社)が詳細に報告している遊女ネアイラをめぐる裁判は、そのための最適な資料を提供してくれています。

 そこには、プラトンの『国家』冒頭に登場する港湾ペイラエウスの富豪ケパロスの息子の一人リュシアスが、遊女ネアイラのパトロンの一人として登場してきます。ネアイラを裁判に引きずり出した原告は、アテナイの高名な弁論家であるリュシアスら10人に次ぐ11番目の弁論家とも言われるアポロドロスで、かれは奴隷から身を起こし富豪の銀行家となったパシオンの息子でした。

<主な登場人物>

ネアイラ:
コリントスの名高い遊女屋ニカレテのもとの遊女。BC4世紀初めごろ出生、幼いころにニカレテに奴隷として買い取られ、思春期になる前から遊女として働き始める。3000ドラクマで二人の男に奴隷愛妾として買い取られた後、2000ドラクマでアテナイ市民に身請けされて自由民となるが、暴力に耐えかねてメガラに逃げ、やはりアテナイ市民のステパノスに救われて妻としてアテナイで暮らし始める。
 「外国人でありながら、アテナイ市民の正式な妻となることでアテナイの法を犯した」と訴えられる。子どもが三人いた、とされる。

ステパノス:
ネアイラの夫。ネアイラの子パノを自らの氏族団に届けたことが、のちに問題とされ、ネアイラが告発される大きな要因となる。

パノ:
ネアイラの子。長じて、アテナイの9人のアルコン職の一つアルコン・バシレウス(祭事執行官)に任ぜられるテオゲネスと結婚。

アポロドロス:
ネアイラの告発者。奴隷から身を起こし富豪の銀行家となったパシオンの息子。パシオンは、アテナイの公共奉仕に貢献したとして市民権を得、その息子のアポロドロスも同時にい市民権を得ている。父亡き後の母の再婚相手を、家族の銀行の金を着服していた、と訴えたことを始め、無数の裁判を起こしていた。数千ドラクマもの莫大な資金の持ち出しや船長の役までしなければならない「三段櫂船奉仕役」を少なくとも四回もつとめている。

<事件の概要>

 私たちが知りうる事実は、ネアイラを告発したアポロドロスの一方的な弁論記録だけであり、訴えられたネアイラ側のものは一つも残っていません。それでも、アポロドロスが調べ上げたネアイラの人生記録は、奴隷として売り飛ばされた一人の女性の半生を窺い知るのに、それなりの素材を提供していることはまちがいないでしょう。

 アリストテレスの『アテナイ人の国制』やリュシアスの『エラトステネス告発』など、私たちが学んできた資料も駆使しながら、この本は、アテナイの社会の実相を裁判記録を通して明らかにしようとしています。

 まずは、じっくり読んでみることをお奨めします。