9からの芸術談義 フッサールの現象学へと踏み込む

 最終日は、プラトンの芸術論にハイデガーの芸術論を対比させ、それをもとにしながら、皆さんに自由に芸術談義をしてもらいました。
 画家である受講生が、ピカソを始めとする内外のアーティストの芸術論をまとめてくれたので、それをまずは紹介しましょう。

 <ピカソの言葉>
「芸術とは我々に真理を悟らせてくれる嘘である」
「想像できることはすべて現実なのだ」
「絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ一種の魔術なのだ」
<ロダンの言葉>
「私は何も発明しません。私は掘り出すのです」
<ジャコメッティの言葉>
「自分が見ている現実はとらえられない。芸術こそ現実を見出す手段に他ならない」
<小貫政之助>
「絵画は虚構である。フィクションではあるが、現実と虚構の間で主張をもつ、もう一つの実体を創る作業であろう」
<野田弘志>
「絵を描くことは、人間とは何か、美とは何か、自分はどう生きるのか、ということを自分自身で考えるエンピツによる思索です」
<ヘーゲル>
「美は理念の感性的表現である」
<ハイデガー>
「芸術とは真理を(が)作品のー内へとー捉えることである」

 彼自身は、絵本作家のマック・バーネットが真理のマルと嘘のマルとの間にはさまった部分である、とした図をあげて、この考え方に近い、と言い、さらに、読売新聞編集委員の芥川喜好が『ロータリーの友』(2004年5月号)に寄せた一文を紹介してくれました。

 「絵というものの不思議について…ひとことで言えば、平面というぺらぺらの二次元世界だからこそ、あらゆる空間表現が、現実も非現実も、想像も幻想も妄想も含めて可能になるという不思議です。ぺらぺらの平面が、人間の想像力にはたらきかけて、優に一つの世界、一つの宇宙に匹敵する空間を生みだす面白さ、と言いかえても、いいでしょう。絵をどう見るかということは、そうした絵の空間に自分なりにどう入っていくかということと、ほとんど同義だとも言えます」(p.36)

 そして、尾形光琳の菖蒲の絵(六曲屏風『燕子花図』かきつばたず)を示して、「現実の菖蒲よりもこの絵の菖蒲のほうが本物ではないか、そんな感じがするときがある」と付け加えました。

 一人の受講生は、次のような論陣を張りました。
「芸術・美について言葉は要らない。理屈も説明も解釈も要らない。ただ感動できればよい」「花を愛でるのに植物学は要らない(稲垣足穂)。月を愛でるのに天文学は要らない。小林秀雄はエジプト紀行のなかで、ピラミッドにはただ圧倒されればよい、と言っています」「言葉は美を散らしてしまふ、独り黙って立ち竦む、でよいのでは」「ピカソが言っています。『感動には叫びはあるが、言葉はない』。本居宣長も言っています。『解釈を拒絶して動じない美しさ』」

 もう一人は「さきほどの画家の方、絵を通じて尊厳というものをひたすら透明化しようとしている」と話、私のしていることは、ソクラテスに絶え間なく近づこうとする試みであり、こうした行為が芸術の本質ではないか、と素敵な話をしてくれました。

 一人の主婦は、ロダンの「掘り出す」に啓示を受け、「人が育っていくのも、本人やまわりが掘り出していくのではないか。『私』自身をひとつの芸術作品と考え、ロダンのように、これからの自分自身を掘り出していければ…」と話しました。「子育ても、自分の未来をつくりあげるのも、ある種のイデアを掘り出す行為である」との興味深いお話です。

 また別のお一人はは「孫が描いたおばあちゃんの絵とピカソが描いた老婆の絵は、織り込まれている人生が違うのではないか」と、ハイデガーの芸術観に通じることを語ってくれました。

 この日の発言について、「芸術・美について言葉は要らない。理屈も説明も解釈も要らない。ただ感動できればよい」と語った方からメールで
「これは、ものごとを『現にそこに在る、あるがままに見る』といふ現象学的見方ではないか」との質問が寄せられました。

 この方の解釈によれば、現象学は

「この世界すべての事象は現象として現れる」「すべてのものをそのものが「何であるか」という問ひを発せず「括弧にいれる」」(フッサール)。「そのものが私に現れる現象だけを問題にする」「先入観を排除する」「思ひ込みを停止する(エポケー?)」「ものごとを客観ではなく主観・直観で見る」

 ことであり、これを総称すれば、「ものごとを『現にそこに在る、あるがままに見る』」ことが、現象学的な見方ではないか、というものです。

 「現象学的還元」「括弧に入れる」「エポケー(判断停止)」といった用語に彩られた現象学について、草野さんから説明を求められたので、簡単に現象学についてお話をすることにいたしましょう。

 フッサールの現象学は、デカルトの「我思う故に我有り」と、カントの「我々が世界の内にあるのではなく、世界が我々の内にある」の言明に対する疑問から出発しています。それは、簡単に言えば、私が見る世界は世界そのものであり、「我思う」で見出された我はその世界を見ている私と同一なのか、という素朴かつ普遍的な疑問です。私たちは、物理学や生物学、心理学といった科学的学問によって、自然界や心身のことを知り、それを客観的な事実として信じています。このあたかもリアルな現実である、と私たちを思い込ませている客観化された出来事に「?」マークをつけ、それらを単なる「現象にすぎない」とするのが「現象学的還元」です(参考:フッサール『現象学の理念』立松弘孝訳、みすず書房、昭和40年10月など)。

 私たちが事実・現実と思っている世界は、科学的であることを理由にしようが、思い込みであろうが、信念に基づく確信であろうが、本質的な根拠なしにそうした現象を判断した結果であり、既成観をすべていったん排除して、「善悪」や「美醜」の判断をいったん「留保する」ことを、フッサールは提起しました。これが「かっこに入れる」ことであり、「エポケー」(判断停止)です。

 したがって、芸術に向き合うときの草野さんの態度は、おっしゃるとおりまことに現象学的見方であると言ってよいと思います。簡単に言えば、在来の客観をすべて「かっこに入れ」、対象(芸術でも自然でも)と真摯に向き合ってその声を「そのまま」聞く、姿勢となりますが、しかし「ただ感動できればよい」は、フッサールの考えからはずれます。もしそうならば、美は個々の主観の受け取り方による、という相対主義になってしまいます。

 極論すれば、美や善といった価値には究極の本質があり、すべての人間はそれをつかみ取る力を備えている、とするがフッサールの考えです。この究極の本質は、まことにプラトンのイデアと同じものなのですが、プラトンはその本質が「私」以外のどこかにある、と考えたのに対し、フッサールは「私」を対置したのです。もちろんその「私」は、バラバラな主観の総称ではなく、デカルトが「理性」に与えたような共通の力を備えた主観、です。(この「私」とは何かについては、いずれまた議論の場に出て来るでしょう)

 それがあるからこそ、私たちはだれもが「解釈を拒絶して動じない美しさ」(本居宣長)や「透明化された尊厳」(、あるいは「見えていない現実」(ジャコメッティ)、さらには「作品のー内―にとらえられた真理」(ハイデガー)「掘り出されたもの」(ロダン)「織り込まれた人生」「もう一つの実体」(小貫政之助)に出会えることになります。

 もし我々が、何かに出会って一様に「ああ」と発したとき、それはその対象が発しているイデア的本質に、私たちが触れた瞬間です。たとえば、京都市右京区の北西山麓・栂尾(とがのお)にある栂尾山高山寺(「鳥獣戯画」で知られる)を開いた明恵上人の作った歌に、

「あかあかや
あかあかあかや
あかあかや
あかあかあかや
あかあかや月」
というのがあります。

 「高台にある寺の広い縁側で座禅を組んで東山から昇る仲秋の名月と、その月光に照らされた寺の庭を、一人静かに眺めている明恵の姿が目に浮かぶよう」だと、ある方は書いていますが、場所や時間を捨象しても、明恵の感動がもろに伝わってくるような気がします。この歌には、時空を超えたイデアとしての美の表出があります。

 自分自身を芸術作品と見立てて作り上げていく、という主婦のお話はソクラテスを思い起こさせます。彼は、その生きざまによって、善のイデアそのものを描き出したのではないでしょうか。