10、「無」という幻影を吹き飛ばせ

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 ゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』

 前回は、お一人が、滋賀県・坂本の滋賀院に掲げられている額「一微塵」に感激・感動して自らの哲学感「自分で考えること」を発展させ、夏目漱石の「則天去私」や華厳教の「一即一切」「重々無尽」の境地に共鳴し、仏教の世界と宇宙のあり様の同一性を説く福島の臨済宗僧侶・玄侑宗久の小論を参考にあげました。一方、もう一人の方は、仏教を神秘主義に結びつけたり、仏教の宇宙観と現実の宇宙とを同列に扱うことの筋違い強調しました。

 さて、最終回では、宇宙から生命、さらには心の問題まですべてを、「弛緩」と「緊張」に代表する「対生の法則」で解き明かそうとするベルクソン哲学から、私たちがどう生きるべきかの処方箋を描き出すことにしたいと思います。

 ベルクソンは、過去を「記憶」、現在を「知覚」、未来を「想像」の図式で捕らえており、私たちは瞬間ごとに、記憶のたまり場や知覚情報、想像を合算した状況で、判断や行動を行う図式を描いています。「記憶」も「知覚」も「想像」も、切れ目のない「たまり場」であり、私たちはそこから何かを選択・取り出して、行為へと向かうのです。

 過去は、宇宙の始まりから生命の誕生、その後の進化、そして歴史が脳を含めた私たちの身体に宿っています。それはタグ付けされた容器に整理されているようなものではなく、切れ目のない「時空連続体」として存在しています。これをベルクソンは「持続」と呼ぶのです。現在もまた、宇宙開闢以来の光の残照から、世界各地で起きている紛争に到るまで、私たちが神や仏のような神通力があれば見通せる無限小の点の揺らぎの集積体として観測されるでしょう。

 未来は、宇宙のすべての点がどのように動くか潜在可能性として存在しています。これは確率の世界であり、どう動くかまったく予測不能です。マクロの私たちの世界の事象でさえ、たとえば北朝鮮が次にどう動くかは予測できません。つまり未来はまさに「一寸先の闇」の「わから無い」「無が溢れて」いる世界なのです。

 「わから無い」未来の世界では、第一次大戦の引き金となったオーストリア皇太子の暗殺事件のように、「偶然」がときに巨大な災危をもたらします。1964年6月28日午前11時のサラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツとその妻ソフィーを乗せた車が、道を間違えて大通りをはずれて抜け道のない狭い路地に入り込み、一人の若者の前で止まったのです。その若者はセルビア人テロリスト集団「ブラック・ハンド」の一員だった19歳の学生プリンツィブで、車に近づきポケットから取り出した拳銃で狙いを定め、引き金を二度引きました。フランツとソフィーは30分もたたないうちに死に、こうして1000万人の命が奪われることになった第一次世界大戦が始まることになるのです。

 19歳の学生とって「幸運」をもたらしたこの偶然の出会いは、世界にとって最高の「不運」となったのです(マーク・ブキャナン「なぜ世界は予期せぬ大激変に見舞われるのか」『歴史は「べき乗則」で動く』早川書房、p.9-10)。

 しかし「無」は無限の確率的事象のたまり場であって、「幻影」(『創造的進化』p.337)に過ぎません。幻影の奥に透かし見える明るい未来への処方箋を、いつかベルクソンを再登場させて見つけ出したいと思っています。

<付記> 
 今回は、皆さんに自由にベルクソン哲学についての感興を語ってもらいました。お一人が、ベルクソンが影響を受けたとされているゴーギャンの絵『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(上)を例にあげたことから、この絵が何を表そうとしたのか、議論になりました。

 これは、普遍的な哲学的問いですが、お一人の答え、このような問いそのものがどうでもよいことをこのゴーギャンの絵は逆に表したのではないか、が、なかなか秀逸だったと思います。つまり、ある種の悟りの心境を表現している、というものです。さて、みなさんは、どう考えますか。