10、「無知のベール」VS「心の中の人」

 ロールズの「原初状態」における「無知のベール」は、人々に自分自身の個人的な既得権益が目標を乗り越えて考えさせるには非常に効果的な工夫である。それにもかかわらず、それは、地域的な、たぶん辺境な価値観を開放的に精査することをほとんど保障しない。「我々は、いわば、自分自身の本来の場所から離れ、ある程度の距離から眺めようと務めなければ」、地域的な前堤、さらに暗黙の偏狭な信念を乗り越えることはできないというスミスの懐疑論から学ぶべきものがある。
                    (『正義のアイデア』p.199)

 私たちの他者の探究もいよいよ最終回を迎えます。

 私たちは、ロールズの「原初状態」とは、私たちがお互いのことを何も知らない状態(生まれや職業など、その人を特徴づける情報のすべて)のとき、つまり白紙の人間同士が集まって物事を決めるときの判断に、「正義」(何が正しいか)の基準を求めるものです。他者と自分との間に境界を設けない、一つの手法と言っていいでしょう。
 これに対して、アダム・スミスは、宇宙の果てにいてまったく利害関係のないものの判断を正義の基準としていました。そしてスミスは、そのような観察者を「心の中」に置くことの重要性を説き、「我々の感情と行動を見守る理想的観察者である『心の中の人』」と名づけました(同p.194)。これはまた「他の人たちならたぶんそう見るだろう」と思う「他者の目」でもあるのです(同p.195)。
 センは、ロールズの「原初状態」は、特定の地域、特定の国、において通用するかもしれないが、それを超えた「他者」としての地域や国には通用しないとし、スミスのアイデアを支持しています。センが最も重視しているのは「『人間である』というアイデンティティ」です。「人間である」ことは、地域や国を簡単に飛び越えて、自己と他者の境界を消滅させます。
 アダム・スミスの方法は、絵画における無限遠点と同じです。二つの点は、次第に遠ざかるにつれて接近し、無限の遠くでは一つに一致します。二つの点を「私」と「他者」としてみましょう。私と他者の違いは、近くで見れば明白です。しかし、どんどん遠ざけて、すべてが曖昧な距離にまで意識の私を遠ざけると、私と他者の違いは消滅し、どちらも「人間である」ことだけが残るでしょう。
 仏教の維摩経は、「他者のなかに如来をみる浄土門」と「自己のなかに如来をみる禅門」を悟りへの門と捉えます、それは、結局は悟りへの入り口(門)の違いに過ぎないので、「不二の法門」とも「大道無門」とも呼ばれるのだそうです。他者の中にも、自己の中にも如来を見ることができるとき、「私」と「他者」は如来において統一されます。

 最終回は、私たちにとって永遠の課題である、「人間であること、とは何か」について、自由に議論したいと思います。