10、アダム・スミスの公平な観察者

 今回は、受講生の一人が、アダム・スミスについて、思うところを発表してくれました。
 スミスは「正義は社会の屋台骨であり、それが崩れれば、社会そのものが崩壊する」と、道徳感情論の中で語っているそうで、とても印象的でした。

 一人の受講生が、「アダム・スミスは、見えざる手とかで、経済社会を動かす力について述べているが、これはいかなるものか。社会を動かすための、何か具体的な提案をしているようには思えない」
 と、首をかしげました。

 この疑問はもっともなことで、レジメにあげた「公平な観察者」についても、同じような疑問が出るでしょう。「見えざる手」も「公平な観察者」も、悪く言えば、現実の私たちと無関係なところで、社会や経済事象は動いており、どうしようもない力の前に私たちは無力である、ということを表明している、ともとれるからです。 

 今回は、前回の「草枕のジレンマ」から、私たちがどのように抜け出せるか、についての議論の続きをしました。

 一人の受講生は、ウィトゲンシュタインの「スマートに生きる」ことによって、このジレンマから抜け出せるのではないか、と言いました。優れた視点です。ウィトゲンシュタインは「より良く(better)生きることは、より賢く(smarter)生きることと同じである」という、センに言わせれば「謎のような」言葉を残しました。これに対して、ある受講生が、「ただの賢い生き方にはずるさが伴うが、より賢い生き方は、そのずるさを乗り越え、ずるさのない生き方になることによって、より良く生きることになるのではないか」と発言してくれました。これは素晴らしい発見です。たぶん、草枕のジレンマを抜けるには、この意味での「賢さ」(smarter)が求められるのかもしれません。
 一人の受講生は、「草枕のジレンマ」を抜けるためには、執着を捨てることではないか、と言いました。

 実は、漱石自身が、『草枕』のなかで、このジレンマから抜け出す方図について語っているのです。主人公は絵描きなのですが、現実の世界を二次元の絵のようなものと考えるのです。三次元世界に飛び出して絵の登場人物たちを眺めれば、何が起きていても平気だというわけです。
 漱石の晩年の境地は「即天無私」。天の原理に従えば、私という我は消える、ということでしょうか。私たちすべてが、このような心境になれば、世の中はきっと平和になると思うのですが…。
 
<レジメ>
「ロールズが正義の評価における客観性の考え方の一つの方法を提示したとすると、アダム・スミスの『公平な観察者』はもう一つの方法を提供している。…ロールズの主たる関心は人々の関心や個人的優先順位の多様性にあったが、アダム・スミスは、ある文化においては知られていない関連する議論を無視することになりかねない価値の地域的偏狭性を避けるために、議論を拡張する必要性にも関心があった。公共的は反事実的な形式を取りうるので(「遠く離れた」『公平な観察者』 なら、それについてどう言うだろうか?)、スミスの主要な手法上の関心は、…あらゆる所から多様な経験に基づく広い範囲の視点や見解を呼び起こす必要性にある」
          (アマルティア・セン『正義のアイデア』pp.88-89)

「公平な観察者」(impartial spectator 「中立な観察者」 とも訳される)とは、どのような観察者なのだろうか。ここで訳されている「公平」は、ロールズが使っている「fair」ではなく、「impartial」である。これは「偏らない」の意味で、「fair」が「公正」と「公平」の両義を含んでいるのに比べると、日本語の「公平」に非常に近い概念である。スミスは、さまざまな場面でこの言葉を使っているが、簡略すると「遠くにいて利害関係をもたない人々」のことを指している。
 
 党派闘争の激しかったスミスの時代には、どこかの党派に属さないで利害関係を持たない客観的な視野から、何が正しいかを表明することは極めて難しかった。『道徳感情論』における次の個所は、「公平(中立)な観察者」の位置づけがもっとも明確に表明されているものの一つである。

 「真実の、尊敬された、中立的な観察者は、したがって、闘争する諸党派の暴力と激怒のまっただなかにおいては、どんなばあいにもまして大きな距離を保っている。これらの諸党派にとっては、そういう観察者は、宇宙のなかのどこにもほとんど存在していないといっていいかもしれない。宇宙の偉大な裁判官にたいしてさえ、かれらは、自分たちのすべての偏見を帰属させるし、そしてしばしば、その神聖な存在を、かれら自身のあらゆる執念ぶかく無慈悲な情念によってわきたっているかのようにみるのである」(アダム・スミス『道徳感情論』水田洋訳、岩波文庫、p.448)

 かつて、世界をめぐるさまざまな出来事に対して、ほとんどの私たちはこの「公平な観察者」のように見えた。そのどれもがあまりにも遠くて、幻のごときものに感じられたからである。しかし、世界の急速なグローバル化によって、「関わりのない世界」の存在は実質的にないといってもよいだろう。この時代、どうすれば、私たち自身が「公平な観察者」になれるか、考えてみたい。