10、人生の分岐点「To be ,or not to be, that is the question.」

 さて、最終回は初回と同じく、ハムレットにおける謎めいた独白「To be ,or not to be, that is the question.」を取り上げます。おなじみの哲学的解釈「生きるべきか、死ぬべきか」から、復讐を「やるべきか、やめるべきか」まで、実にさまざまな解釈が可能なことを、前回、私たちは確認しました。
 お配りした資料、神戸学院大学教授の長谷川弘基さんの解釈は「そうなのか、そうではないのか、知りたいことはそれだけだ」というものです。その心について、長谷川さんは次のように書いています。

 「あの亡霊は本当に亡き父親の亡霊なのか?」とか「この牢獄のような宮廷から逃げ出した方がいいのではないのか?」とか、「母は本当に不倫をしていたのか?」とか、「復讐しなくてもいいのだろうか?」とか、ありとあらゆる禍々しい疑問の渦に対してであり、その上で、「それだけが唯一肝心の問題だ」と言っているわけだ。とすれば、つまりは、「本当のことが知りたい!」という叫びと理解すべきであろう。

 私はハムレットを離れて、日常の現実から「To be ,or not to be, that is the question.」の意味を問いたいと思います。答えは、いつでも、どこでも、この問いが私たちにまつわりついて、すべての言動の前に、この問いが私たちを拘束している、というものです。毎日の行動を振り返ってみましょうか。

 朝、目を覚ますと、寝床でまず「起きるべきか、起きないべきか」でぐずぐずしている自分があります。起きたら、「トイレに行くべきか、行かないべきか」「散歩をすべきか、しないべきか」うんぬんと、それこそ瞬間ごとに私たちは二者択一の問題と”格闘“していることに気づくでしょう。

 目的地に向かって歩き始めたら、スマホを忘れたのに気づき「戻るべきか、戻らないべきか」、駅に着くと人身事故で電車が止まっていて「待つべきか、待たないべきか」、覚悟して他の駅に行くバス停を目指して再び歩き始めると、交差点で「曲がるべきか、曲がらないべきか」と、ゴールに着くまでに一体何回の「To be ,or not to be, that is the question.」を繰り返しているかわからないくらいです。

 先日、受講生の紹介で、小さな絵展をやっている新小岩の應無寺に行く機会がありました。哲学に興味があるという一人の女性画家が、「もし私があのとき別の判断をしたら、どんな人生になっていただろうか、と考えることがあります」と、まさに人生の分岐点で出会った「To be ,or not to be, that is the question.」の話をしてくれたのです。

 以前、ヴォルテールの講座のとき、「人生は、はしごかけ自由のあみだくじ」の話をしたことを覚えているでしょうか。生きていることは、外的環境による偶然か、意志による必然かのどちらかによって、無数の分岐をたどり、やがて一つのゴールにいたります。

 哲学者キルケゴールは、そのはしごを逆戻りして「あのとき」に戻り、別の道を歩こうとしたら、悪魔にでも頼まなければ不可能だ、といった話を「あれか、これか」で書いていたような気がします。

 さて皆さんには、悪魔に頼んででも、はしごかけによる別の道を歩みたい、時空点はあるでしょうか。