10、人間であるとはどのようなものであるか

 何年も前に、「こうもりであるとはどのようなことか」と題する正当に有名な論文の中で、トマス・ネーゲルは心と体の問題について根本的な考え方を提示した、正義論の追及も、同じような問題と関わっている。すなわち、「人間であるとはどのようなものか」という問いである。                        (アマルティア・セン『正義のアイデア』p.583)
 ホッブスが、「ひどく不潔で、残忍で、短い」人生しか生きられない人間の悲惨な状況について言及したとき、彼は、同じ文章で、「孤独であること」は、心をかき乱すような不幸であるとも指摘している。孤独から抜け出すことは、人間の生活の質にとって重要であるだけでなく、人類が苦しめられているその他の窮状を理解し、それに対応する上で、強力に貢献することができる。そこには確かに基本的な強さがあり、それは正義論が取り組んでいることを補完するものである。  (アマルティア・セン『正義のアイデア』p.585)

 前回は、皆さんにとって大事にしたい権利とは何か、について自由に語ってもらいました。「自分の時間を自由に使えること」「身体を拘束されないこと」「無縁にされない権利」「いつも自由にしてきたから…」「違いを認めること」「いつでもどこでも歩いて行けること」「この時代の日本に生まれて良かった。コミュニティを選べる権利」「ロッキード事件・三浦事件にみる人権の平等性」「愛犬と手賀沼を散歩するときの至福感」「何よりも精神の自由」「自尊心が守られること」「内面的な思想・良心の自由」「干渉されないことかなあ」「リスペクトされること」「パスポートを空港で提示するとき、ああ、守られているのだなあ、と感じる」「自由に生き、自由に選択できること」。

 今回は、第18章「正義と世界」をめぐって、センの末尾のメッセージ「人間であるとはどのようなものであるか」に関連して、アメリカの哲学者トマス・ネーゲル(1937-)の『こうもりであるとはどのようなことか』(永井均訳、勁草書房、1989.6)と、社会契約論で知られるトマス・ホッブス(1588-1679)の『リヴァイアサン』(「世界の名著28」永井道雄責任編集、中央公論)を材料に、正義の問題を考えてみたいと思います。

 ネーゲルの問い、「私たちは、こうもりになることができるか」、は、ヴィットゲンシュタインの「他人の痛みはわかるか」と通底し、私たちはどうしたら他者そのものになりきれるか、という問いに通じます。センの引用した、ホッブスの言葉「孤独であることの不幸」は、人は一人では生きられない、常に隣人が必要である、とのメッセージが込められています。ホッブスによれば、国とは契約による強固な縁によって私たちに義務を課し、その代償として安心と安全を与える人工物です。正義とは「他者を一人にしないこと」であり、それを義務とする国家こそ、在りうる国の姿ではないか、とホッブスは言っているように見えるのですが、いかがでしょうか。