4、人間国宝・梅若玄祥、古代ギリシアの神殿で舞う

 前回は、AIを巡って議論か沸騰、一人の受講生が総務省のAIネットワーク検討会議の中間報告をもとに「AIによる人間支配か現実のものになりつつある」脅威について語ったのに対し「人間はその都度、常に技術的な問題を解決しながら現在まで来ている。AIには過去はあるが、現在と未来がないJ と対極の立場も披露されました。AIについては、いずれまた議論の場に載せることにいたしましょう。

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http://www.bs-asahi.co.jp/umewaka2016/
 
 今回は、昨年7月にギリシアの「アテネ・エピダウロス・フェスティバル」で行われた、梅若玄祥の新作「冥府行~NEKYIA (ネキア)の上演を観てもらいましょう。

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 ホメロスの長編叙事詩「オデュッセイア」の11章「ネキア」から、魔女キルケーの助言に従って冥府に行った主人公のオデュッセウスが、亡くなった母や預言者のテイレシアスと出会い、故郷で待つ妻の窮状やこれから起こる予言を聞く物語を能に仕立てたものですギリシア人演出家ミハイル・マルマリノスのオファーを受け、3年前から梅若が脚本家の笠井賢一と組んで能本脚本の形にするよう取り組んできました。           

 マルマリノスは、プラトンの想起説「知識とは内なる記憶の蘇りである」(対話篇『メノン』参照)を引用して「私にとって能との出会いはまさにそうで、出会う前からすでに知っていた気がした」「ギリシアの古代演劇と能との間には驚くほどの類似性がある。音楽との密接な関係、ドラマよりは詩と関係をもつ、仮面を使う、そしてコロスが登場する。『ネキア』と能との出会いは運命的なものだと思う」と語るマルマリノスは、演劇を学んでいた学生時代に、日本人作曲家の関わる舞台かデルフォイの古代劇場で上演された際にコロス(舞台袖で合唱や筋立てを唱
和する合唱隊)として出演、そのときに能楽師と出会ったと言います(新作能「冥府行~ネキア」製作発表レポート|e+(イープラス)Theatix!Pick up)

http://etheatrix01.eplus2.jp/article/420072466.html 
 
 前回お配りした多木浩二「世阿弥のミメーシス論」(『比喩としての世界一意味のかたち』青土社、pp、200-214)は、プラトンのミメーシス論によって世阿弥の演劇論を解釈しようとするものですが、簡単にポイントを書いておきます。引用されているアリストテレスは、『詩学』のなかで「起こった出来事を語る歴史に比べると、起こるだろう出来事を語る詩はより哲学的であり、価値あるものである」(1451b)と言っています。

 古代ギリシアの場合、詩はホメロスらの謡をともなった物語文学全体の総称ですから、能も同じ範疇に属していると言っていいでしょう。従って、アリストテレス流に言うならば、「他界」(心の異界=狂気、肉体の異界=冥界)との交流を基本とする能は、「ありうること」を想像力によって描き出す芸術である、ことになります。
 
 世阿弥によれば、芸の良し悪しを最終的に決めるのは観客(見所)であり、三つの芸域「皮」(一見、華やかでうまい)「肉」(技を感じさせるうまさ)『骨J (うなる名人級のうまさ)に対応した観客のレベルを、F見」(外見の華やかさだけしかわからない)「聞」(個々の技や音曲に感じ入ることができる)「心」(能の奥義まで感じ取る)と分けています。さて、人間国宝・梅若玄祥の「骨」に達する能表現は、ギリシア人だもの「心」を捉えることができたでしょうか。