SOA受講生自主講座
講座「哲学の楽しみ」の春季自主教室が、2013年3月26日と4月9日の二回にわたって開かれました。
受講生の方々の哲学への思いが、日ごとに高まっていることを強く感じます。
今回は11人の参加者があり、6人が発表しました。
表題をあげておきます。
1、南極紀行
2、「自由」の変遷
3、①西洋哲学と男色②無縁社会と新たな「絆」
4、ヴィットゲンシュタインと金子みすずー論理の表現力と感性の表現力
5、アリとキリギリス
6、目蓮尊者の諸徳三禮
講座「哲学の楽しみ」の冬季自主講座(2012年12月18日)より
三人の方が発表しました。
1、科学と形而上学を融合した新しい哲学が求められる時代ではないか。
2、カント以前の中世の哲学観
3、アリストテレス『詩学』のカタルシスをめぐって
1は、講座「哲学の楽しみ」で、一人が、今一番求められているのは、哲学者が発言することではないか、との声に呼応したものです。議論が原発の核のゴミの話に関連してきたので、「私」自身は一哲学徒に過ぎませんが、次のような話をしました。
哲学の最大の目的は、アリストテレスが述べて以来、すべての人々の幸福を目指すものである。核のゴミは、ひとり日本だけの問題ではなく、世界の問題であり、どこもがその解決法を見出していない。核のゴミの処分をどうするか、国連に世界の叡智を集め、人類共通の問題として哲学者と科学者によるプロジェクト・チームを作るよう提案したい。日本が、その旗振り役となって、世界に働きかけ、このプロジェクトをまとめることができれば、未来社会を含めた世界へと貢献できるだろう。
核のゴミは、地中に埋め立てることだけを考えるのではなく、一つの再生可能な資源としても見るべきである。核融合への道は至難だとしても、世界をあげて叡智を結集すれば、現実化は決して不可能ではないのではないか。「小さな太陽」が完成すれば、エネルギー問題は実質的に解決する。
3は、悲劇によって涙することで、私たちはなぜ「カタルシス」(心の浄化)を感じるのだろうか。喜劇による笑いでは、心は浄化されないのだろうか、といったことが話題にのぼりました。
これに対して、フランスの哲学者シオランの名言「一滴の涙さえあれば、世界を変えてみせる」を引用しながら、涙はそれまでの私たちをゼロにして、再生させる効果があるのではないか、といった話をしました。つまり、悲劇に深い感動を受けて私たちが泣くとき、それまでの自分が死んで新しい自分が生まれ変わって出てくる。悲劇は、自らの死と再生をうながす作用をもっている。これが、カタルシスの本質ではないか。
(詳細は後日)
講座「哲学の楽しみ」の冬季自主講座が2012年12月11日に開かれました。
以下の二つの質問が出ました。
1、宇宙の始まりが「無」であったというが、この無とは何か。
2、カントの言う「私」とは何か。
これに対して、おおむね次のように答えました。
1、ビッグバンの始まりが「無」から、と言われるようになったが、この「無」はむしろ仏教の「空」のようなものである。空は縁を解けばすべてのつながりがない実質的な無の状態になり、縁がつながることによって無から有が生じる。これが「色即是空」である。宇宙の始まりはかつて「偽真空」と呼ばれたように、何もない真空の状態が実は膨大なエネルギーのたまり場であって、このエネルギーが「ゆらぎ」によって解放され、そこから爆発的に宇宙が誕生した。
カントは、何かが現れるときは、何かが消える、という考え方を示している。これは、プラスの電荷をもつ陽子でできている原子核のまわりを、同じ数のマイナス電荷の電子がまわっていれば、中性の原子として外界には表れる、という例を考えるとわかりやすい。
電荷ゼロのなかに、プラスとマイナスの電荷が含まれているから、分離すれば陽子と電子という見えなかった存在が出現するのである。
(続く)